詩の原野

いろんな人の詩心の原野に迷いこみたい

第三芸術

ごあいさつ

 芸術を考えていて宮澤賢治の詩「第三芸術」と出合った。これをこのブログ始めのご挨拶代わりとして挙げさせていただきます。賢治のは世間の第三芸術と異なるとお思いの方もいらっしゃるようですが、(発表の順という事にして)私は賢治の第三芸術論でいきます。訂正は直ぐにできますから賢治より先に発表した記事があれば教えてくださると有難くぞんじます。

 

第三芸術

 蕪のうねりをこさえていたら
 白髪あたまの小さな人が
 いつかうしろに立っていた
 それから何を蒔くかときいた
 赤蕪をまくつもりだと答えた
 赤蕪のうね かう立てるなと
 その人はしづかに手を出して
 こっちの鍬をとりかへし
 畦を一とこ斜めに掻いた
 おれは頭がしいんと鳴って
 魔薬をかけてしまはれたやう
 ぼんやりとしてつっ立った
 日が照り風も吹いていて
 二人の影は砂に落ち
 川も向ふで光っていたが
 わたしはまるで恍惚として
 どんな水墨の筆触
 どういふ彫刻家の鑿のかほりが
 これに対して勝るであらうと考えた

(宮澤賢治)

 

この記事は「おむすびころりん」へ続きます

 

おむすびころりん

宮澤賢治の詩「第三芸術」にお伽噺「おむすびころりん」を想った。人はそれぞれだし、入り口は無数にあるでしょう。おむすびころりんは「高いところからどんどん転がり落ちるおにぎりを追っかけていった先は地獄だった」という設定はどなたもご存知のとおりと思いますが、噺の筋のどこに関心を抱くかは人それぞれのようです。 

たまたま「おむすびころりん」に関心を持っていた私は賢治の第三芸術思想おむすびに結びつけたくなっただけのこと。それで私の畦はどう耕されるべきか・あるいは耕さないか、それはまた別のどんなおむすびを持ってくるかで異なる景色が拡がることになる筈だが、そもそも私の関心が第三芸術に向いた切っ掛けがあった訳です。 

私の朧な記憶に寄ると10年程も前だったか、「桑原武雄の第二芸術論の騒ぎ」があったのを考えていたからです。胸を張って堂々として俳句界を護ろうという者が1人も現われない現実は未だに続いている。それはそれで好いが、好いという為には佳い状況を誰かが作りださなければなるまい。その誰かが俳句界にいなければどうする?

 言い出しっぺがやるしかないことは明らか。桑原武雄はそう思って第二芸術論をぶったのかな。桑原は文筆家のスタンスに立って述べたのだろうし、それで宮澤賢治は実践家として畦に鍬を入れている。師の背中の見よう見真似では中々上手く真似られるものでない。ま、不器用な私には自己流であっても・毎日まいにち耕す術しかない。 

おむすびが私の足元まで転がってこなければ、私は永遠に闇のなかを身動きもせず・考えることもなく過ごしていた。私にはこのおむすびから何にも代えがたい・美味しく・しかも決して飽きさせられない・本然の力を涌き出させてくれるスグレモノ=本然のが感じられる。結局第二芸術は私(たち)のおむすびなんだと言うことになる。

 

落葉松に青

入りゆくや落葉松未知の青籠めて 橋本多佳子
 (いりゆくやからまつみちのあおこめて)

 

落葉松(からまつ)の道を入って往く影あり
そこは近づく人など滅多にいなかった林の筈
男は落葉松の一本一本を確かめるように歩く
そして寂しい・寂しいと口遊んでいるようだ
その声に羽が生える・悲しい詩となって飛ぶ
そうかあ、男は悲しみの詩を詠む詩人なんだ

少しばかり遅れて落葉松林に女がやってきた
そして呟く。そうなのか、彼女も詩人なのか
耳を澄まして静かに彼女の詩を聴いてみよう
淋しがってるって聞いてたけど違うみたいね
仲間が集まって落葉松の林になってるみたい
それに小道の先に希望がいっぱい見えてるよ

同じ景を観てる筈なのに多佳子は強いよね?
どうしてそんなに明るく温かい詩になるの?
ほんと不思議だね。あなたはどう思います?

 

花しどみ

花しどみ老いしにあらず曇るなり 橋本多佳子
 (はなしどみ おいしにあらずくもるなり)

 

第五句集・遺句集「命終」の冒頭句。この句集には昭和三十一年五月から昭和三十八年三月までの凡そ七年間に詠まれた句が載せられているようです。花しどみを知らない私ゆえにコノ句の正確な文意は分らない。正確なところは分らないけれど、そんな私にも思い当たることはある。橋本多佳子の旅は是までも是からも永遠につづく。そのことを私に伝えてくれていて、この句は私にはとても大事に想えるのです。

旅は出合いであり・出会いです。受け容れあうこともあれば受け容れられないこともある。一様に括ることができない繫がりの連続だから人は旅に飽きないのでしょう。ある時・ある所では親子として誤解し合いながら過ごしたかも知れないけれど、次の生までが同じになる訳ではありません。そんなことは花しどみに具体的に観察できるよね?だから誰の所為でもないって事。落ち込むことは無いって言ってるの。

こんな会話にどこかで出合った覚えがある人は多いのでないのかな。誰かを励ますことで誰より励まされるのはいったい誰でしょうか?俳句の心(詩心)は人生の旅の出会い・出合いを心温まるものにしてくれる特効薬に違いありません。人間を信じているから人は議論も口ゲンカできるのでないのかな。心(こころ)を信じているから何ごとが起きてもあなたは期待できるでないのか。多佳子はいつもあなたの隣りなのよ。了

 

一処一情

ご遺族が折角出してくださった「橋本多佳子全句集」なのに殆んど読めないままに済ませては勿体ない。多佳子の師・山口誓子の解説を読み、小池昌代氏のエッセイに目をとおし、橋本多佳子の句・句誌への想いにも触れることができた。そう思っても精力と生涯を傾けて詠んだ多佳子の句の全てを読み切ることまで私は考えないほうがいい。ここの表題の「一処一情」は或る世界を詠んでいるときの多佳子の命の有りようを言い表わすために山口誓子が造語したもの。そうであれば師であっても多佳子の一処一情の場にオイソレと近づくことは躊躇われたにちがいないのに、多佳子がそのような中で詠んでいる真っ只中の現場に私は今・ともに立たせて貰っている気がしている。

 歎きゐて虹濃き刻(とき)を逸したり 橋本多佳子

 (なげきいて にじこきときをいっしたり)

私はこの句を読んで母を想いだしてしまった
その母は今なお健在で私を叱ってくれている
私のために母は死ねず・永遠に叱ってくれる
私の先になり・後になりして歩いてくれる母
幸せでゐるのよとの想いしか持たなかった母
母の心は一処一情そのものなのを思い出した
(これは句集「海彦冒頭に載っていた句です)

 

多佳子の座

あぢさゐの夕焼天にうつりたる 橋本多佳子

あじさいの ゆやけたかくに うつりたる)

 

「夕焼天」をどう読もうか迷ったが、今もまだ迷っている気持ちがある。これは小池昌代氏の読みかたを知りたいと思うも、氏の都合はある筈だし・やっぱり自分なりの理解で読みすすめるのが良いとも思う。

角川ソフィア文庫版「橋本多佳子全句集」を手に入れて初めて知った句が私の殆んどだが、この文庫本の帯(おび)に『なんとさびしい句だろう、美しい句だろう』とあるのがムカッとくる。だがこの「ムカッと」させる存在がなければ誰が私の稲光りの役を担ってくれるだろう。だれが昏い蛍籠を揺り炎えたたせてくれるだろう。そんなこと分っている積りでいても今回もまたムカッとさせられて醒めさせてもらっている吾が人生に有難く思える瞬間を味わっていて、それで心から感謝できているようです。

多佳子が「天」と云うとき星座と捉えたくなる私。眼前から七変化し続けるそれは天高く昇って座に安住するでなく宇宙全体は多佳子のなかに配される自然の働きが嬉しい。ここに「座」を捜し求めて恥じた舎利弗の説話が思い出されるのは私だけであるまい。そのときの変成男子を演じてみせた乙女はどこでどうしているだろうか‥。いやいや、素敵な夢をいつの世も・いつの時代も・どんな時にも届けてくれる女性たち。その社会の・時代の先を切って往った多佳子だったように思えてならない私。了。

 

(追記)

あぢさゐの夕焼天にうつりたる」を再往眺めて思うのは、女性から男性に合わせてやっぱり女性に戻った天女の景が私のなかに想い描かれる。座にも華やかさにも執着しない・惑わされない真に美しい・自由人・多佳子だったのだろうな。

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みずみずしい発芽を見せる紫陽花

 

長谷川かな女

(ここでは直前の記事で触れた長谷川かな女を述べる)

生涯の影ある秌の天地かな  長谷川かな女
(しょうがいのかげ あるあきのてんちかな)

生涯の影ある / 秌の天地かな」とも読めますが‥
生涯の影 / ある秌の天地かな」と読ませていただきます。

 

(句意)俳人の秋晴れの心は澄んでいて暗い卑屈な陰など微塵もない。そうは云っても差してくる影はどうしてもある。様々な影‥中でも生涯の影と言うほかない巨大で無視できない影はある。それ等も含めて世界なんですね。

 

人間は来し方を想いだして懐かしんだり悔いたりする。後悔しないで済むほうが断然いいし、そのために人は他者を憎まず・呪わず、祝福したり・幸せを祈ってあげることで自分も幸福感に浸れることを覚えたのでしょう。揶揄したり扱けさせて他者の失敗を面白がる句の心でなくて、他者の成功・無事を祈る温かく優しい俳句の心に辿りついたのだろうと私には思える。どうしてこんな事を想ったのだろうか?

 

戸板康二が脚色したゴシップ記事への怒りが私にこの文章を書かせているように思う。イチャモンを付ける積もりなら心を込めた言葉も贈り物も相手の心に届かない。家康が秀頼寄進の鐘の文字に言いがかりを付けて豊臣家を滅ばした史実を観るまでもない。杉田久女の句が俳人の心で読まれていたら何の問題も起きなかった。ヒネクレて読むのは面白いかも知れないが、ヒネクレ者は俳句会に居てならなかった。

もっと言えば、ヒネクレ読みを誰もしなければ、久女が死ぬことはなかったとも想われる。ともあれ戸板は長谷川かな女を持ちあげる役目を果たしたことになる。ヒロインかな女にはヒール(悪女)が必要になると脚色した小説家の戸板が考えて不思議はない。講釈師見てきたような嘘を吐きと言うが直木賞作家・戸板なら日常茶飯事の朝飯前だろうな。だが何故だ?なんで戸板康二は久女を貶め・呪ったのか?

私人であれば穏やかな人物も公人の立場になるとエゲツナイ振舞いをするのが男の社会というモノだ。たとえば、恨みも憎しみも持たない対象を殺すのは公人としての言動に他ならない。ここで公人は私人に対する意味で使っている。だから公務員に限定していない。社用で集金にいけば貧乏人からでも金を取ってくるのは、世間の会社員が普通にやっていることです。冷血漢でなくても集金はするでしょう?

 虚子きらいかな / 女嫌いの単帯 杉田久女

従業員・戸板は人間広告塔・長谷川かな女を大々的に売出す使命を帯びたとする。久女を引きずり降ろせば かな女が浮上する計算。芝居はそうやってるし、日本の社会も同じ方式の駆引きがまかり通る。だからって美しい心の世界・俳句を汚い土足で踏みにじっては駄目だろ?川柳や狂句の世界であれば笑い飛ばす目的も許される。だからホトトギスは狂句の集団なのか?久女を悪者にして伸上る集まりなのか?

こう導かれてきて「生涯の影 / ある秌の天地かな」は、いったい誰の影なんだ? これは久女の影と戸板は言い逃れたいだろう。だが無理だな。ホトトギスの中で久女は誰よりも弱い立場に立たされた。それでも猶、かな女が久女の影だと言うとするなら、かな女は久女に対して抱えきれないほどの大きな負い目があるのです。もしか、久女を殺したのは自分にも責任があるのでは‥優しいかな女ならそうかもね。

ともあれ、「ホトトギスは事業体であれば、弱い奴は脱落する」という事業方針を備えていて不思議ではない。弱い奴はのたれ死ぬんじゃという社是・方針を掲げたからって法律違反ではありませんね。俳句集団であれば悔い改めて「杉田久女を貶めたことを全社を以ってお詫びもうします」と‥これくらいはテレビで流しても構わないはずです。

 

呪う人は好きな人なり紅芙蓉  長谷川かな女
(のろうひとはすきなひとなり べにふよう)

 この句の呪うをレベルの低い呪い・怨み・憎み合いに貶めたくない‥私なら俳句の心を失くしていないかな女を想うし、俳句の温もりを信じたい久女を想うけどな。戸板康二直木賞なの?ふうん。