詩の原野

いろんな人の詩心の原野に迷いこみたい

他人ごと? 私ごと?

近代俳句の創始者正岡子規の次の句は夙に知られるが、どういう訳か誰一人も歯切れ好く説明デキないのはどうしたことか?それでここに今回取上げた。

鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規

素人や新人が分らないのは教わった記憶がないからであれば仕方ないこと。それならその上のお師匠さんはどうなってるかと言えば、是もやっぱり教わっていないのでしょう。結局元の元まで辿ってみるしかないことは明らかです。だから師匠が上記の句を出したときの弟子の対応はどうあるべきか?子規の弟子はどう対応したのだろうか?

立派です・流石に子規先生の句は素晴らしい・鶏頭の文字が輝いて眩しいです・十四五本の数がナントも言えず見事に思います・下五の「べし」が効いてます・私たちではとても考えつきません‥とまあ、こんな感じで子規のご機嫌をうかがったのだろうな。そのような悪しき伝統を受け継いできた句会の現状があるのを知れば何をか況やだろう。

他人事に下手に関わったら酷い目に遭わされると思う人は多い。その酷い世界で俳句の心が分る筈もない。人の心が分らないAIロボットでも作句する。だからロボットのように何も考えないで反射的に言葉が飛出す訓練を受けさせる句会のお稽古ごとが主流になってきた。あなたもお題を出されて反射的に句を捻りだす訓練は御存知かもね。 

心にもない事をぺらぺ~ら喋る訓練は営業の訓練には打ってつけかもしれないね。だけど下手な営業は説明を求められるとシドロモドロで馬鹿丸出しで成績が悪い。成績の悪い営業訓練を句会で行うことに何かメリットがあるだろうか。何にも考えないで口を動かしてるだけで歳をとったら全うな会話が出来なくなる惧れも高くないか?

本論を「鶏頭の十四五本もありぬべし」に戻そう。この句は俳句か?狂句(きょうく)か?柳多留(やなぎだる)か? これを先ずハッキリさせよう。芭蕉の時代は俳句でなく俳(はい)で通用した。この神や人を面白がらせ・楽しませ、さ迷い・ぶらつく意。ここから気の置けない関係を社会にもたらす働き・サービス精神が期待できる。

これで気づくが、お笑い芸人が狂句・柳多留の芳香を漂わせて笑いを取りたがる言動をするのに通じる。狂句の字面(じづら)でお笑い芸人のエゲツナイ芸を見せられると思うのは当然だろうし・芸人も覚悟のうえだろう。柳多留の字面からは傾奇者(かぶきもの)のイメージを見る人に与えて当然であれば、訳者も承知のことと思っていい。

笑われて嬉しい芸人もいるが、そうでない芸人もいる。昔の傾奇者は遊び人の顏をして歩いていたとしても、現代の歌舞伎役者は真面目・真剣・誠実を顔に描いて歩いている気がするのは私だけであるまい。つまり是は詩心を表看板にして暮らしていると私は思っている。私は是を俳句の中心に据えている。あなたはどうか知りませんよ。

柳多留(現代の川柳)はそうするとエゲツナクナイ系のお笑いであり、狂句はエグイお笑い系と見做すことになる。結局、正岡子規鶏頭を俳句・川柳・狂句のドコに置くべきか?俳句系は俳句として読むべきであり、川柳系は川柳として読めばいい。狂句系の句会は狂句として読むのがその会の路線に似合っていることはもうお分りだろう。

狂句として読むべきか?川柳と受けとめて読みべきか?優美な俳句として読むべきか、これは句会の主催者の専権事項であれば、お弟子たちがアレコレ指図することでなく、あなたのお好みの句会を厳しくセレクトして入門なされば好いことですね。そんなことも知らない句会に入って肌に合わないクリームで被れるようなモノでしょうね。 

それでこの「鶏頭の十四五本もありぬべし」の句はいったい何だろう?読み手によって評価が分れている‥この句の評論者は俳句として読んだのか?川柳として読んだのか?狂句として読んだのか?私がこのヤヤコシイ句を出すなら、牛後・鶏頭、色いろ居るだろうが、三々五々に散っていったとして、何組できるのかな?何人残るかな?

因みに「万緑やわが額にある鉄格子 橋本多佳子

彼女は鉄格子を出ていきました。山口誓子を師に選んだのは俳句を詠みたかったからに違いありません。鶏頭でなければ俳句を詠めない‥正岡子規真実の声が多佳子の脳裏まで届いたとも理解できます。牛後にいて如何して俳句になるものか?機会が残されていたなら久女をも俳句の道に誘いたかっただろうな‥(これは私の想いです)

(最後に)
虚子嫌いかな女嫌いの単帯 杉田久女

この句をんだ杉田久女は世間からどう評されているだろうか?評者の文を直接お読みになればお分かりになりますが、最後の最後まで虚子に付いた久女のこの句を誰も俳句と思っていなくて狂句扱いにしている。句会「ホトトギス」しか知らない筈の久女の句を狂句扱いする評者の脳内はどうなっているのだろうか、、?

久女が学び・憶え・身に付けたモノ、それは高濱虚子流儀の句しか有りえない。そうすると「虚子の句は狂句でしかなく俳句を詠めない虚子である」と証言しているに等しい。表立って貶さずに陰口を叩いているのだろうか?そうであればこの証言者たちも又狂句の心しか持っていないことを私からは申して置きましょう。

俳句の心・俳句会として読む人々・俳人たちは「虚子嫌いかな / 女嫌いの単帯」と読むことになる。俳句というのは人間の温もりを重視する詩に違いありません。芭蕉の心は人間の温もりに関心ないとでも仰りたいなら別ですし、私の場合です。久女のこの可愛らしさに気づかないところに詩の心は見つからないかも。了

 

芭蕉・蕉門の目的地㊦

タテの繫がりとかヨコの繫がりとか云うがワケの分らん中途半端な文章が多いなか、臨床心理士はさすが分りやすい文章をお書きだと想わせられて、氏の知恵をお借りする。臨床心理士・中島美鈴氏の記事の概要。仕事は「タテ」の関係・プライバシーは「ヨコ」の関係というふうに私は理解した‥この私の理解に責任は取らない。それで奥の細道の決意の文中で「子どもたちと仲良く遊んで一生を過した良寛 / 仕事に忙しかった極楽寺良観」と述べたが何の説明しなかったのを思い出したのです。

子供たちの大好きな良寛はヨコの繫がりを大事にしたが、仕事が生甲斐の良観はタテの繫がりを重視したことが臨床心理士の説明から私のなかで整理された次第です。ヨコの繫がりは仲よくなければ続かなくて、タテの繫がりは支配することで利益を得る。こう捉えるとき、ヨコは仲よくすることを目的とし、タテは利益の獲得を目的としている現実・具体例が見えてくる。これを社会的な役割りとして観ると如何なるか?良寛社会平和の働きなら、良観は誰かの懐を潤す働きをしていたようです。

社会平和は大事、懐に入れる利益も大事。いかが?笑 さて本筋に戻ります。芭蕉の目的はドコにあるだろうか?芭蕉の目的が私の目的と異なるとき、私はもちろん大事な目的を選ります。芭蕉の方が優れていれば私は芭蕉の目的を当然選るし、私のほうが優れていると思うときは芭蕉を見切ります。格言にも「見切り千両」という。価値の高いほうを選るのに何をためらう意味があるだろう。今はこれまでどおりに良い道を歩きたい。それで良寛に倣うか?良観に倣うか?やっぱり折衷が好いか?

 

― 執筆途中 ―

 

芭蕉・蕉門の目的地㊥

情報化が進んだ現代世界で情報の温存を図る努力は徒労に終わりそうだ。仮に内緒の貯金を人知れず遺して、それでこの貯金でほくそ笑むのは誰?笑 情報=お金。狡い誰かがあなたの情報を盗もうとしている。私なら知識・情報を公開する。あなたにも公開をお勧めする。社会・世界の人々の役に立てようぜ。

世界規模のインターネット媒体でツイートした記事だけは誰の目にも留まりやすい。私にはこれがツイッターの最大の魅力です。自分の記事をさがすのに苦労する媒体がじつに多いが、ツイッターに関して私は殆んど感じない。もっとシッカリしてきたらツイッター社は更に信頼されるのでなかろうか。

お金が絡むとコトは自分一人の問題で済まず・他者の利害に配慮する結果、純粋性は失われる。その状況は家族を人質に取られて服従させられるのに似ている。日本や独裁国の人が政治・宗教を話題にすれば家族を飢えさせる恐れがある。弱い立場の人が強者(=権力)に立向かうリスクは大きいですよね。

こう導かれるとき蕉門はナニを為すべきか?あなたが芭蕉の一門でなければ関わらなくて済む。 じつに私は蕉門の者でない。だがロジックが私を縛るのです。ロジックを科学と言い換えてもいい。科学に矛盾する論に私は与(くみ)しない。これは私の哲学・信念・宗教でもある。あなたの感覚だと如何か?

この記事を西洋人が読んだとき‥どう反応するだろう?私の想像だと「この日本人(の私)はナンテ馬鹿なこと言ってるんだ」となる。「科学を無視することをトヤカク論ずる幼児レベルの是・日本人は問題外だ」と呆れるかも。スポーツでも政治でも宗教でも科学無視は戴けないのが現代世界の常識だろう。

ともあれ、松尾芭蕉・蕉門の旅立ちの決意表明の句が示し・目差す世界へ至るためにを誤まってならない事はドナタにもお分かりだろう。好き放題・勝手をしておいて世の中は不公平だと嘆いても仕方あるまい。口を開けなければ食べられないし・手に取らない饅頭が胃袋に勝手に跳びこんでくる事はない。

是は一往・芭蕉の課題だが真実を考えるとき、再往・私の課題として捉えなければ意味がない。の句を借りて私の課題を解く機会・切っ掛けとする。雛は芭蕉の仮(かり)の姿として、私は雛の文字を借(かり)て一段磨かれなければ勿体ないこと。じつに凡ての世界のデキゴトは他人事で無いようです。了。

 

奥の細道の決意

芭蕉・蕉門の目的地㊤の記事途中から飛んできております

 

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 松尾芭蕉
(くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ)

桃の節句ということでこの句を想い起したが、もしかして芭蕉の想いが私にのり移ったのだろうか‥と観察するに桃の節句を祝っている句のようでなく・この家に住むであろう次の家族を想って詠んでいるのでもないように思える。だから芭蕉が引っ越す目的はナニ?そりゃあ「奥の細道」の旅へ向けての下準備でないのか。だから物見遊山の旅なんかではないんだ。目的地へ向かう道筋にどんな問題が待ち受けているか分らない。蕉門が進む道を芭蕉が確認していると考えるのが納得いくように思う。出発なんだ。今までは仮の姿、いよいよ是から本番なんだ。

過去の蕉門は「仮り」‥ネット検索で雛を「かり」と読むサイトが一つ有って面白かった。念のために漢和辞典や古語辞典を調べたが雛を「かり」と読まない。「仮り」とは読める。読めるとは「意味する」ってこと。それにしても鋭いと感心した。過去って? 桃青時代から脱皮する‥その決意の句。桃の節句に青い桃を飾るかな?大人はそれも良い。だから未来を引受ける子供の悦びを殺(そ)ぐ桃青🍏になっては駄目だ。🎎雛祭りは子どもの夢を大きく育(はぐく)むのがいい。夢を持てない子を生まないための一日が有っていいんだね。これが蕉門の向うべき道だと芭蕉雛の家で宣言した。

現実には様々な人が存在する。子どもたちと仲良く遊んで一生を過した良寛は有名だ。仕事に忙しかった極楽寺良観もいた。同様に句会にもイロイロで、橋本多佳子は🎎雛祭りを娘のための大事な日と詠んだ。未来の宝が一人前の大人になれるように句の世界も手伝える。芭蕉を褒めすぎましたか? (すなわち句意は)『どこの家の住人も年月が経てば入れ替わるのが道理なのです。それなのに雛の家(蕉門)だけがどうして成長しない旧態依然の意識のままで良いものか。そんなのでは駄目でしょう!?』と読むことになる。あなたはいかがお読みになりますか? 了。

 

(追記)人間関係にはタテヨコの関係があるという臨床心理士の記事を見つけた。ここの記事と重なる部分が多いのでアドレスを載せる。
 

 ⋯という事で芭蕉・蕉門の目的地㊤の記事途中へ戻ります

f:id:met-hod:20210302213312j:plain

古くて新婚気分の夫婦雛かも

 

芭蕉・蕉門の目的地㊤

俳聖・松尾芭蕉とは何なのか‥

 

芭蕉を考えるとき、私は上の四句を無視できない。四句の記事は以前にも書いたが、古池やの句はライブドアからseesaaに移された記事の中からこうして読み返すことができるし、他の三句は最近ライブドアのブログ記事の大方が消えてしまってブログ枠しか残っていない。調べる時間は私に無く・私の記事であれば心まで失われた訳でなく、必要に応じてこうして書ける健康に感謝できる機会を得たと思っている。(∩´∀`)∩

 上記の句のうち、古池やは言わずと知れた芭蕉の代表句だが、下京や芭蕉の弟子・凡兆の考案を師匠が補足した合作とされているようです。この二句とは別の意味で後の二句を捉えている。病鳫の旅に病んでの二句に芭蕉蕉門の方向性が顕われ見えている気がするのは私だけだろうか。そういったことを引続いて述べてまいりたい。

ここで松尾芭蕉の [奥の細道の決意]を観ておきたい。

さて、芭蕉の決意は草の戸も住み替はる代ぞ雛の家の句に見えた。是を私の根拠として次へ進む。桃青すなわち未熟な桃すなわちすなわち羽ばたく前の蕉門でしょう。守る人のために雛祭り🎎があるのではない。子供(=雛)のうちは守られる人。守られる人は雛祭りを存分に楽しむべきだ。結局、蕉門を背負う自覚は誰にあるだろうか?

お断りしておきますが、私は蕉門の門風を述べているのです。芭蕉は古いとおっしゃる句会・あるいは芭蕉の句は駄目とお思いの句会の有りようを考案しているのではない。私は芭蕉が願ったであろうナニカを探っているのです。この結論に依るとき俳句に男の句・女の句の差はない。男も女も個人の立場で出来ることをやるのみです。

ここで一旦終わります。了 

 

剣豪修業の海彦時代かも

橋本多佳子の句集『海彦』から二句を読ませていただきます。この「海彦」には多佳子56歳頃から61歳頃に詠まれた句が並んでいる。初版「海燕」の句が41歳頃までの10年ほどに詠まれたようで、30歳前後で本格的に俳句と取組んだことになりそうだ。

図書館から借りると2週間が期限であれば落着いて読むどころでなかったが、今回からは噛みしめ・味わいながらじっくり読むことになる。山口誓子氏の解説も私にはとても面白く思えて多佳子を知る上で欠かせない資料とさせていただいている。

この海彦にざっと目を通して私のなかに先ず浮かんできたのは剣豪の修行者である。そう感じさせられた句が次の2句なのです。もちろん、もっともっと深いところへ入っていく筈の橋本多佳子であれば͡この先にナニが出てくるか分る筈もない。

 

冬の石乗れば動きぬ乘りて遊ぶ 橋本多佳子

 

ナニとでも遊ぶのは幼児だが、剣豪宮本武蔵も目にした物と納得するまで遊んだだろうな。幼児も武蔵も多佳子も乗ってみて・触れてみて・確かめてみて・満足する。ここで私は芭蕉の「閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声」を想った。

芭蕉は蝉と遊び、さらに岩とも遊んでいる。己の身体とも遊んでいるに違いない。撫でたり乘ったりしたのは勿論で、身体が動かなくなると岩のなかまで潜りこんで蝉の声を岩越しに聞いて愉しんでもオカシクナイ。修業は人間だけの遊びです。

2月18日の今朝も冷えておりました。背中を丸めて猫になるのも好いけど、子供のように・剣豪のように・冬の寒さのなかでも動くこと即ち生きることとお思いなのです。自然と楽しんで過ごしている橋本多佳子は実に詩人なのですね。

 

めざむよりおのが白息纏いつつ 橋本多佳子

 

身体が目覚めてから白息とともに世界を愉しむ多佳子は修行者、即ち多佳子は魂の目覚めとともに真剣勝負の中を過ごしてきた。身を着飾って楽しむのも好いが、白息を纏う意味では武蔵・芭蕉・多佳子の違いを感じない‥私の場合です。

こう導かれてきて多佳子に弱さはなく、剣豪の修行を見る人の心に孤高の多佳子が被って見えて不思議はない。武蔵を美しいと見るも汚いと見るも武蔵の責任でなく・見る側の問題。に価値は伴う。私は剣な多佳子に価値を見る。

 

ある時は教師妻

人の多くは様々な容(かたち)の衣裳に身を包む。TPOに合わせて好みの衣裳に着替えもする。他者を見るときは好みの衣裳を見たくなり・己もまた好みの衣裳にやつしてみせる。見られる側も見る側も時・所・状況に合わせて好みの衣裳を身に纏(まと)う。じっさい私自身がそうだし・橋本多佳子も例外ではあるまい。自分で身に着けたはずの額にある鉄格子を愉しんだ記憶がドコかにあるかどうかでなく・今の着心地を大事にしたい大切な私もいる。久女のためを想う多佳子の気持ちも私にはとても大事に思われれば決して捨て去ることは考えられない。

多佳子の句集を初めてさがした時は大阪市だか府だかの図書館から取り寄せてもらったが、2018年に角川ソフィア文庫で「橋本多佳子・全句集」が出版されていて有難い。その文庫本の帯にはなんとさびしい句だろう、美しい句だろう――小池昌代とある。帯を読んで書籍を棚に返すことは多いし、帯で本の内容が察せられて買ってしまう場合も多い。それで今回の句集の帯は誰に当てて書かれたモノなのか、興味を抱かせられてしまった。詩のあらたなファン層を広げ生みだすのに役立っているように私には思われる。その視点はとても大事に思われた。

f:id:met-hod:20210216143251j:plain

(橋本多佳子・全句集)

多佳子の句に「さびしい・美しい」というイメージを覚えたことのなかった私にはその新鮮な衝撃が心地よくもある。(そんな私のことはどうでも好くて)今は杉田久女の句「足袋つぐやノラともならず教師妻」を検証したい。私はイプセンの小説『人形の家』を読んだことなく・読む積もりもなく、だけど読んでみたら久女に対する理解は変わるかも知れない。だからといって私の関心はソコにない。私のもっかの関心は責任を持って・己の人生に立ち向かい・確実なる成長を図っている現実の女性「多佳子」にあって、小説のヒロイン・ノラに対する関心はない。

私は強い多佳子が好きなようだ。よろよろよろけ疲れていて危なっかしいけれど、そんな多佳子の強さを私は愛している。もちろん、いろんなタイプの男性がいて、私タイプは滅多にいないことも体験から分っている積り。大概の男性の魅力は人類の長い歴史のなかで培われてきたものであれば、殆んどの女性の好みにも合うだろうことぐらい私は納得できている。ゆえに久女が目ざしているだろう衣裳も世間の評価基準に合うことになる。その意味から私は「変わり者の女性・ノラ」と言うことになる。この矛盾に多佳子は気づいていたようだが、久女のほうはどうだったのか‥。

結局変わり者の女性と云われたくなく・世間ふうの妻の役目もこなせていて・久女は世間に恥じるところは少しもない、せめて自分の時間ぐらいは好きに使わせてもらう・誰にも邪魔させない、それは私の権利でしょ!? こう導かれてくるとき、現代の若い女性の胸のうちで「それは私の権利でしょ!?」が頭をもたげてくることはないだろうか‥?私の嫁にはクサンティッペを刷り込んでいるから、それがどこまで功を奏するか私にはまだ分らないけれど、世間でオトナシク過していても・イヤなら私に対して信じる心の油断で以って汚い言葉で罵ってくれる安心感はあるのかな。

すなわち道筋がおぼろに見えて気がする。ノラは変わり者。ノラの伴侶は常識人だった。久女は常識豊かな女性にちがいない。そのような常識豊かな女性たちのカワイイ矛盾に浴びせられる常識豊かな戦闘士による必殺の一撃に思われてならない。喧嘩はダメよと云う常識豊かな人の急所へ容赦ないパンチがとんでくるとき‥どうする?喧嘩上手になった非常識なノラは常識人との喧嘩になるまえに家を飛び出したのでなかったか?クサンティッペは変わり者ソクラテスを選て仲よく喧嘩して幸せだった。いやいや、あなたの常識でないだろうことは私でも存じておる積りです。

 

次の句を挙げておきます。

 いなびかり北よりすれば北を見る  橋本多佳子

 

この句の読みかたは色々あるが、ここは常識豊かな多佳子を読みます。

素直な多佳子であれば、恐い稲光(パパ)もやがて静かになる。稲光を逆なでして逆鱗(げきりん)に触れて憎まれたら大変な目に遭わされるのではないでしょうかね!?