詩の原野

いろんな人の詩心の原野に迷いこみたい

おむすびころりん

宮澤賢治の詩「第三芸術」にお伽噺「おむすびころりん」を想った。人はそれぞれだし、入り口は無数にあるでしょう。おむすびころりんは「高いところからどんどん転がり落ちるおにぎりを追っかけていった先は地獄だった」という設定はどなたもご存知のとおりと思いますが、噺の筋のどこに関心を抱くかは人それぞれのようです。 

たまたま「おむすびころりん」に関心を持っていた私は賢治の第三芸術思想おむすびに結びつけたくなっただけのこと。それで私の畦はどう耕されるべきか・あるいは耕さないか、それはまた別のどんなおむすびを持ってくるかで異なる景色が拡がることになる筈だが、そもそも私の関心が第三芸術に向いた切っ掛けがあった訳です。 

私の朧な記憶に寄ると10年程も前だったか、「桑原武雄の第二芸術論の騒ぎ」があったのを考えていたからです。胸を張って堂々として俳句界を護ろうという者が1人も現われない現実は未だに続いている。それはそれで好いが、好いという為には佳い状況を誰かが作りださなければなるまい。その誰かが俳句界にいなければどうする?

 言い出しっぺがやるしかないことは明らか。桑原武雄はそう思って第二芸術論をぶったのかな。桑原は文筆家のスタンスに立って述べたのだろうし、それで宮澤賢治は実践家として畦に鍬を入れている。師の背中の見よう見真似では中々上手く真似られるものでない。ま、不器用な私には自己流であっても・毎日まいにち耕す術しかない。 

おむすびが私の足元まで転がってこなければ、私は永遠に闇のなかを身動きもせず・考えることもなく過ごしていた。私にはこのおむすびから何にも代えがたい・美味しく・しかも決して飽きさせられない・本然の力を涌き出させてくれるスグレモノ=本然のが感じられる。結局第二芸術は私(たち)のおむすびなんだと言うことになる。