詩の原野

いろんな人の詩心の原野に迷いこみたい

多佳子の座

あぢさゐの夕焼天にうつりたる 橋本多佳子

あじさいの ゆやけたかくに うつりたる)

 

「夕焼天」をどう読もうか迷ったが、今もまだ迷っている気持ちがある。これは小池昌代氏の読みかたを知りたいと思うも、氏の都合はある筈だし・やっぱり自分なりの理解で読みすすめるのが良いとも思う。

角川ソフィア文庫版「橋本多佳子全句集」を手に入れて初めて知った句が私の殆んどだが、この文庫本の帯(おび)に『なんとさびしい句だろう、美しい句だろう』とあるのがムカッとくる。だがこの「ムカッと」させる存在がなければ誰が私の稲光りの役を担ってくれるだろう。だれが昏い蛍籠を揺り炎えたたせてくれるだろう。そんなこと分っている積りでいても今回もまたムカッとさせられて醒めさせてもらっている吾が人生に有難く思える瞬間を味わっていて、それで心から感謝できているようです。

多佳子が「天」と云うとき星座と捉えたくなる私。眼前から七変化し続けるそれは天高く昇って座に安住するでなく宇宙全体は多佳子のなかに配される自然の働きが嬉しい。ここに「座」を捜し求めて恥じた舎利弗の説話が思い出されるのは私だけであるまい。そのときの変成男子を演じてみせた乙女はどこでどうしているだろうか‥。いやいや、素敵な夢をいつの世も・いつの時代も・どんな時にも届けてくれる女性たち。その社会の・時代の先を切って往った多佳子だったように思えてならない私。了。

 

(追記)

あぢさゐの夕焼天にうつりたる」を再往眺めて思うのは、女性から男性に合わせてやっぱり女性に戻った天女の景が私のなかに想い描かれる。座にも華やかさにも執着しない・惑わされない真に美しい・自由人・多佳子だったのだろうな。

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みずみずしい発芽を見せる紫陽花