詩の原野

いろんな人の詩心の原野に迷いこみたい

長谷川かな女

(ここでは直前の記事で触れた長谷川かな女を述べる)

生涯の影ある秌の天地かな  長谷川かな女
(しょうがいのかげ あるあきのてんちかな)

生涯の影ある / 秌の天地かな」とも読めますが‥
生涯の影 / ある秌の天地かな」と読ませていただきます。

 

(句意)俳人の秋晴れの心は澄んでいて暗い卑屈な陰など微塵もない。そうは云っても差してくる影はどうしてもある。様々な影‥中でも生涯の影と言うほかない巨大で無視できない影はある。それ等も含めて世界なんですね。

 

人間は来し方を想いだして懐かしんだり悔いたりする。後悔しないで済むほうが断然いいし、そのために人は他者を憎まず・呪わず、祝福したり・幸せを祈ってあげることで自分も幸福感に浸れることを覚えたのでしょう。揶揄したり扱けさせて他者の失敗を面白がる句の心でなくて、他者の成功・無事を祈る温かく優しい俳句の心に辿りついたのだろうと私には思える。どうしてこんな事を想ったのだろうか?

 

戸板康二が脚色したゴシップ記事への怒りが私にこの文章を書かせているように思う。イチャモンを付ける積もりなら心を込めた言葉も贈り物も相手の心に届かない。家康が秀頼寄進の鐘の文字に言いがかりを付けて豊臣家を滅ばした史実を観るまでもない。杉田久女の句が俳人の心で読まれていたら何の問題も起きなかった。ヒネクレて読むのは面白いかも知れないが、ヒネクレ者は俳句会に居てならなかった。

もっと言えば、ヒネクレ読みを誰もしなければ、久女が死ぬことはなかったとも想われる。ともあれ戸板は長谷川かな女を持ちあげる役目を果たしたことになる。ヒロインかな女にはヒール(悪女)が必要になると脚色した小説家の戸板が考えて不思議はない。講釈師見てきたような嘘を吐きと言うが直木賞作家・戸板なら日常茶飯事の朝飯前だろうな。だが何故だ?なんで戸板康二は久女を貶め・呪ったのか?

私人であれば穏やかな人物も公人の立場になるとエゲツナイ振舞いをするのが男の社会というモノだ。たとえば、恨みも憎しみも持たない対象を殺すのは公人としての言動に他ならない。ここで公人は私人に対する意味で使っている。だから公務員に限定していない。社用で集金にいけば貧乏人からでも金を取ってくるのは、世間の会社員が普通にやっていることです。冷血漢でなくても集金はするでしょう?

 虚子きらいかな / 女嫌いの単帯 杉田久女

従業員・戸板は人間広告塔・長谷川かな女を大々的に売出す使命を帯びたとする。久女を引きずり降ろせば かな女が浮上する計算。芝居はそうやってるし、日本の社会も同じ方式の駆引きがまかり通る。だからって美しい心の世界・俳句を汚い土足で踏みにじっては駄目だろ?川柳や狂句の世界であれば笑い飛ばす目的も許される。だからホトトギスは狂句の集団なのか?久女を悪者にして伸上る集まりなのか?

こう導かれてきて「生涯の影 / ある秌の天地かな」は、いったい誰の影なんだ? これは久女の影と戸板は言い逃れたいだろう。だが無理だな。ホトトギスの中で久女は誰よりも弱い立場に立たされた。それでも猶、かな女が久女の影だと言うとするなら、かな女は久女に対して抱えきれないほどの大きな負い目があるのです。もしか、久女を殺したのは自分にも責任があるのでは‥優しいかな女ならそうかもね。

ともあれ、「ホトトギスは事業体であれば、弱い奴は脱落する」という事業方針を備えていて不思議ではない。弱い奴はのたれ死ぬんじゃという社是・方針を掲げたからって法律違反ではありませんね。俳句集団であれば悔い改めて「杉田久女を貶めたことを全社を以ってお詫びもうします」と‥これくらいはテレビで流しても構わないはずです。

 

呪う人は好きな人なり紅芙蓉  長谷川かな女
(のろうひとはすきなひとなり べにふよう)

 この句の呪うをレベルの低い呪い・怨み・憎み合いに貶めたくない‥私なら俳句の心を失くしていないかな女を想うし、俳句の温もりを信じたい久女を想うけどな。戸板康二直木賞なの?ふうん。