詩の原野

いろんな人の詩心の原野に迷いこみたい

乳母車夏の

 

乳母車夏の怒涛によこむきに 橋本多佳子


橋本多佳子を知ることが出来たのは「近代俳人」に載った上野さち子氏の短い記事のお陰。そのときの何気なしに読んだ短い文章までは憶えていないが、その文がなければ私が多佳子に惹かれることは無かっただろうし、以来13年ほどの時が経って考えるに、他に代えられない貴重な時間を私に贈ってくれたのだと有難く思えてならない。

このように語ったところで私の心のなかを誰も追体験できる筈もないが、多佳子の乳母車にナニを想うかは人それぞれであれば、文を読んで共感するとか同情するとか反発する、あるいは多佳子の乳母車以上に重かった記憶が呼び覚まされることになるだろう。他人は知らず、私自身の乳母車は扱(こ)けさせることなくシッカと進めなければ!

俳句とはどんな文学か?そこまで考えずに済ませてもいいが、多佳子の句は私の背中を力強く温かく押してくれる追い風の役目を務めてくれている。即ち文学であるが、それ以上に私には哲学であり宗教でもある。私の前をいく多佳子は荒れ野の草を踏み分け進む先覚者で、横向きに倒れてしまう弱者であり、だから多佳子は真実・偉大なんだ。

の宗教は(私の場合は)そういうモノになる。この文を考えていて新カテゴリーの方向まで見えた気がする。有難いことです。