詩の原野

いろんな人の詩心の原野に迷いこみたい

万緑やわが額にある

万緑やわが額にある鉄格子

(読み方:ばんりょくやわがぬかにあるてつごうし)

 

 

世間に流れているフレーズ「他人の不幸は蜜の味」を思いだして検索、前向きな意見に出合えて幸いでした。橋本多佳子も私と変わらない感覚だってことはこの俳句に顕われている。格言に「人を呪わば穴二つ」というが、「平安期に陰陽師は、人を呪殺しようとするとき、呪い返しに遭うことを覚悟し、墓穴を自分の分も含め二つ用意させたことに由来」との事。

前向きな意見は脳科学者の科学的見地からのご意見であり、陰陽師のほうは独特の思想・信仰に寄っていて、それだけで多佳子と同じ結論が出たと悦ぶ訳にはいかない。たまたま同じ結論になっただけかも知れず、それなら何が欠けているかと言えば先ず「哲学」が抜け落ちている。二者は確たる哲学に寄っていたとしても、私が観た資料に依ると哲学に触れられていない。 

お分かりだろうが、権威(脳科学者と陰陽師)の立場と多佳子・(それにあなたも含めて)私たちの立場は重要です。専門家(権威)が危ないと云うとき危ない確率は高いと捉えるべきでも、大丈夫と云うとき安全確率は正・誤の二つに1つです。私たちは実験動物(モルモット)でなく利益を享受すべき人なのです。多佳子はその事を分っている。それをこのに感じた私。

この句は誰に宛てたものだろうか?そりゃあ!私に決まってますけど、あなたがご自分に宛てた句だとお取りになるのは読み手の権利です。そう読むとき「わが額」を多佳子の額と受けとめることはない。多佳子はその事を私に教えてくれる。鉄格子は他人ごとでなくて多佳子自身の額にある鉄格子のことです。多佳子がそう思ったのなら私もまた己の鉄格子と受けとめる。

ま、多佳子の弟子志願者は誰でもそう捉えるでしょうね。師匠が実践している哲学を弟子たる私もまた実践できる嬉しさ・幸せ。これこそ弟子冥利に尽きると‥‥是は私の信仰であれば、だれに同意を求めるものでもありません。私自身の鉄格子を抜出なければの想いです。一応は杉田久女を対告衆に見立てたと読めるが、肝心の多佳子自身へ向けて呼びかけた句にもなっている。

女性の愛(かな)しさまでが私の中に引きだされるのは、鬼子母神が世界中の全ての子供の命と己が子の命の重さを比べて悟った仏説の影響かもしれない。子供をもつ親は余所の子の命・価値も思いやれるものだし・配慮できる機会を得たと捉えるのも間違いでないと思います。拝