詩の原野

いろんな人の詩心の原野に迷いこみたい

ある時は教師妻

人の多くは様々な容(かたち)の衣裳に身を包む。TPOに合わせて好みの衣裳に着替えもする。他者を見るときは好みの衣裳を見たくなり・己もまた好みの衣裳にやつしてみせる。見られる側も見る側も時・所・状況に合わせて好みの衣裳を身に纏(まと)う。じっさい私自身がそうだし・橋本多佳子も例外ではあるまい。自分で身に着けたはずの額にある鉄格子を愉しんだ記憶がドコかにあるかどうかでなく・今の着心地を大事にしたい大切な私もいる。久女のためを想う多佳子の気持ちも私にはとても大事に思われれば決して捨て去ることは考えられない。

多佳子の句集を初めてさがした時は大阪市だか府だかの図書館から取り寄せてもらったが、2018年に角川ソフィア文庫で「橋本多佳子・全句集」が出版されていて有難い。その文庫本の帯にはなんとさびしい句だろう、美しい句だろう――小池昌代とある。帯を読んで書籍を棚に返すことは多いし、帯で本の内容が察せられて買ってしまう場合も多い。それで今回の句集の帯は誰に当てて書かれたモノなのか、興味を抱かせられてしまった。詩のあらたなファン層を広げ生みだすのに役立っているように私には思われる。その視点はとても大事に思われた。

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(橋本多佳子・全句集)

多佳子の句に「さびしい・美しい」というイメージを覚えたことのなかった私にはその新鮮な衝撃が心地よくもある。(そんな私のことはどうでも好くて)今は杉田久女の句「足袋つぐやノラともならず教師妻」を検証したい。私はイプセンの小説『人形の家』を読んだことなく・読む積もりもなく、だけど読んでみたら久女に対する理解は変わるかも知れない。だからといって私の関心はソコにない。私のもっかの関心は責任を持って・己の人生に立ち向かい・確実なる成長を図っている現実の女性「多佳子」にあって、小説のヒロイン・ノラに対する関心はない。

私は強い多佳子が好きなようだ。よろよろよろけ疲れていて危なっかしいけれど、そんな多佳子の強さを私は愛している。もちろん、いろんなタイプの男性がいて、私タイプは滅多にいないことも体験から分っている積り。大概の男性の魅力は人類の長い歴史のなかで培われてきたものであれば、殆んどの女性の好みにも合うだろうことぐらい私は納得できている。ゆえに久女が目ざしているだろう衣裳も世間の評価基準に合うことになる。その意味から私は「変わり者の女性・ノラ」と言うことになる。この矛盾に多佳子は気づいていたようだが、久女のほうはどうだったのか‥。

結局変わり者の女性と云われたくなく・世間ふうの妻の役目もこなせていて・久女は世間に恥じるところは少しもない、せめて自分の時間ぐらいは好きに使わせてもらう・誰にも邪魔させない、それは私の権利でしょ!? こう導かれてくるとき、現代の若い女性の胸のうちで「それは私の権利でしょ!?」が頭をもたげてくることはないだろうか‥?私の嫁にはクサンティッペを刷り込んでいるから、それがどこまで功を奏するか私にはまだ分らないけれど、世間でオトナシク過していても・イヤなら私に対して信じる心の油断で以って汚い言葉で罵ってくれる安心感はあるのかな。

すなわち道筋がおぼろに見えて気がする。ノラは変わり者。ノラの伴侶は常識人だった。久女は常識豊かな女性にちがいない。そのような常識豊かな女性たちのカワイイ矛盾に浴びせられる常識豊かな戦闘士による必殺の一撃に思われてならない。喧嘩はダメよと云う常識豊かな人の急所へ容赦ないパンチがとんでくるとき‥どうする?喧嘩上手になった非常識なノラは常識人との喧嘩になるまえに家を飛び出したのでなかったか?クサンティッペは変わり者ソクラテスを選て仲よく喧嘩して幸せだった。いやいや、あなたの常識でないだろうことは私でも存じておる積りです。

 

次の句を挙げておきます。

 いなびかり北よりすれば北を見る  橋本多佳子

 

この句の読みかたは色々あるが、ここは常識豊かな多佳子を読みます。

素直な多佳子であれば、恐い稲光(パパ)もやがて静かになる。稲光を逆なでして逆鱗(げきりん)に触れて憎まれたら大変な目に遭わされるのではないでしょうかね!?