詩の原野

いろんな人の詩心の原野に迷いこみたい

剣豪修業の海彦時代かも

橋本多佳子の句集『海彦』から二句を読ませていただきます。この「海彦」には多佳子56歳頃から61歳頃に詠まれた句が並んでいる。初版「海燕」の句が41歳頃までの10年ほどに詠まれたようで、30歳前後で本格的に俳句と取組んだことになりそうだ。

図書館から借りると2週間が期限であれば落着いて読むどころでなかったが、今回からは噛みしめ・味わいながらじっくり読むことになる。山口誓子氏の解説も私にはとても面白く思えて多佳子を知る上で欠かせない資料とさせていただいている。

この海彦にざっと目を通して私のなかに先ず浮かんできたのは剣豪の修行者である。そう感じさせられた句が次の2句なのです。もちろん、もっともっと深いところへ入っていく筈の橋本多佳子であれば͡この先にナニが出てくるか分る筈もない。

 

冬の石乗れば動きぬ乘りて遊ぶ 橋本多佳子

 

ナニとでも遊ぶのは幼児だが、剣豪宮本武蔵も目にした物と納得するまで遊んだだろうな。幼児も武蔵も多佳子も乗ってみて・触れてみて・確かめてみて・満足する。ここで私は芭蕉の「閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声」を想った。

芭蕉は蝉と遊び、さらに岩とも遊んでいる。己の身体とも遊んでいるに違いない。撫でたり乘ったりしたのは勿論で、身体が動かなくなると岩のなかまで潜りこんで蝉の声を岩越しに聞いて愉しんでもオカシクナイ。修業は人間だけの遊びです。

2月18日の今朝も冷えておりました。背中を丸めて猫になるのも好いけど、子供のように・剣豪のように・冬の寒さのなかでも動くこと即ち生きることとお思いなのです。自然と楽しんで過ごしている橋本多佳子は実に詩人なのですね。

 

めざむよりおのが白息纏いつつ 橋本多佳子

 

身体が目覚めてから白息とともに世界を愉しむ多佳子は修行者、即ち多佳子は魂の目覚めとともに真剣勝負の中を過ごしてきた。身を着飾って楽しむのも好いが、白息を纏う意味では武蔵・芭蕉・多佳子の違いを感じない‥私の場合です。

こう導かれてきて多佳子に弱さはなく、剣豪の修行を見る人の心に孤高の多佳子が被って見えて不思議はない。武蔵を美しいと見るも汚いと見るも武蔵の責任でなく・見る側の問題。に価値は伴う。私は剣な多佳子に価値を見る。