詩の原野

いろんな人の詩心の原野に迷いこみたい

芭蕉・蕉門の目的地㊤

俳聖・松尾芭蕉とは何なのか‥

 

芭蕉を考えるとき、私は上の四句を無視できない。四句の記事は以前にも書いたが、古池やの句はライブドアからseesaaに移された記事の中からこうして読み返すことができるし、他の三句は最近ライブドアのブログ記事の大方が消えてしまってブログ枠しか残っていない。調べる時間は私に無く・私の記事であれば心まで失われた訳でなく、必要に応じてこうして書ける健康に感謝できる機会を得たと思っている。(∩´∀`)∩

 上記の句のうち、古池やは言わずと知れた芭蕉の代表句だが、下京や芭蕉の弟子・凡兆の考案を師匠が補足した合作とされているようです。この二句とは別の意味で後の二句を捉えている。病鳫の旅に病んでの二句に芭蕉蕉門の方向性が顕われ見えている気がするのは私だけだろうか。そういったことを引続いて述べてまいりたい。

ここで松尾芭蕉の [奥の細道の決意]を観ておきたい。

さて、芭蕉の決意は草の戸も住み替はる代ぞ雛の家の句に見えた。是を私の根拠として次へ進む。桃青すなわち未熟な桃すなわちすなわち羽ばたく前の蕉門でしょう。守る人のために雛祭り🎎があるのではない。子供(=雛)のうちは守られる人。守られる人は雛祭りを存分に楽しむべきだ。結局、蕉門を背負う自覚は誰にあるだろうか?

お断りしておきますが、私は蕉門の門風を述べているのです。芭蕉は古いとおっしゃる句会・あるいは芭蕉の句は駄目とお思いの句会の有りようを考案しているのではない。私は芭蕉が願ったであろうナニカを探っているのです。この結論に依るとき俳句に男の句・女の句の差はない。男も女も個人の立場で出来ることをやるのみです。

ここで一旦終わります。了