詩の原野

いろんな人の詩心の原野に迷いこみたい

奥の細道の決意

芭蕉・蕉門の目的地㊤の記事途中から飛んできております

 

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 松尾芭蕉
(くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ)

桃の節句ということでこの句を想い起したが、もしかして芭蕉の想いが私にのり移ったのだろうか‥と観察するに桃の節句を祝っている句のようでなく・この家に住むであろう次の家族を想って詠んでいるのでもないように思える。だから芭蕉が引っ越す目的はナニ?そりゃあ「奥の細道」の旅へ向けての下準備でないのか。だから物見遊山の旅なんかではないんだ。目的地へ向かう道筋にどんな問題が待ち受けているか分らない。蕉門が進む道を芭蕉が確認していると考えるのが納得いくように思う。出発なんだ。今までは仮の姿、いよいよ是から本番なんだ。

過去の蕉門は「仮り」‥ネット検索で雛を「かり」と読むサイトが一つ有って面白かった。念のために漢和辞典や古語辞典を調べたが雛を「かり」と読まない。「仮り」とは読める。読めるとは「意味する」ってこと。それにしても鋭いと感心した。過去って? 桃青時代から脱皮する‥その決意の句。桃の節句に青い桃を飾るかな?大人はそれも良い。だから未来を引受ける子供の悦びを殺(そ)ぐ桃青🍏になっては駄目だ。🎎雛祭りは子どもの夢を大きく育(はぐく)むのがいい。夢を持てない子を生まないための一日が有っていいんだね。これが蕉門の向うべき道だと芭蕉雛の家で宣言した。

現実には様々な人が存在する。子どもたちと仲良く遊んで一生を過した良寛は有名だ。仕事に忙しかった極楽寺良観もいた。同様に句会にもイロイロで、橋本多佳子は🎎雛祭りを娘のための大事な日と詠んだ。未来の宝が一人前の大人になれるように句の世界も手伝える。芭蕉を褒めすぎましたか? (すなわち句意は)『どこの家の住人も年月が経てば入れ替わるのが道理なのです。それなのに雛の家(蕉門)だけがどうして成長しない旧態依然の意識のままで良いものか。そんなのでは駄目でしょう!?』と読むことになる。あなたはいかがお読みになりますか? 了。

 

(追記)人間関係にはタテヨコの関係があるという臨床心理士の記事を見つけた。ここの記事と重なる部分が多いのでアドレスを載せる。
 

 ⋯という事で芭蕉・蕉門の目的地㊤の記事途中へ戻ります

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古くて新婚気分の夫婦雛かも