詩の原野

いろんな人の詩心の原野に迷いこみたい

久女のため

 つぎつぎに菜殻火燃ゆる久女のため 橋本多佳子

 

 


 

 

(つぎつぎにながらびもゆるひさじょのため)

 

多佳子が個人名を挙げて詠んだ句を私は他に知らない。それほど多佳子にとっての杉田久女は重い存在だったと感じる。平凡な愛を大切に過ごしたかっただろう久女。その久女に掛ける言葉を多佳子は多く持たなかったかも知れない。只ただ動静を案じているしかなかった多佳子だったように思う。久女は美しい今日を見ようとしていて、多佳子は明日を見ようとしていたに違いない。要するに大事に思うものが二人は異なるのだ。今日に生きる者は今日にしか関心なくても、明日を生きる者は三世を視界に置かなければいかなくなるだろう。

久女が最後を過ごした病室辺りに佇(たたず)んだあと、目にした筑紫平野の空へ次つぎと昇る菜殻火に久女を託したかった多佳子の想いが感じられる。菜殻火に声援を送っている声がどこまでも聞こえてくるようだ。今の久女に必要なのは明日への熱烈な励ましよりは・一面の景色を明々と照らしてくれる灯りのほうを喜ぶだろう。消えないで・絶えないで・もっともっと燃え照らし続けてあげて‥。久女が向こう岸へ無事に着くのを確かめられたらいいが、そんな道理に適わないことを想う橋本多佳子でないことは私でも知っているのです。

万緑やわが額にある

万緑やわが額にある鉄格子

(読み方:ばんりょくやわがぬかにあるてつごうし)

 

 

世間に流れているフレーズ「他人の不幸は蜜の味」を思いだして検索、前向きな意見に出合えて幸いでした。橋本多佳子も私と変わらない感覚だってことはこの俳句に顕われている。格言に「人を呪わば穴二つ」というが、「平安期に陰陽師は、人を呪殺しようとするとき、呪い返しに遭うことを覚悟し、墓穴を自分の分も含め二つ用意させたことに由来」との事。

前向きな意見は脳科学者の科学的見地からのご意見であり、陰陽師のほうは独特の思想・信仰に寄っていて、それだけで多佳子と同じ結論が出たと悦ぶ訳にはいかない。たまたま同じ結論になっただけかも知れず、それなら何が欠けているかと言えば先ず「哲学」が抜け落ちている。二者は確たる哲学に寄っていたとしても、私が観た資料に依ると哲学に触れられていない。 

お分かりだろうが、権威(脳科学者と陰陽師)の立場と多佳子・(それにあなたも含めて)私たちの立場は重要です。専門家(権威)が危ないと云うとき危ない確率は高いと捉えるべきでも、大丈夫と云うとき安全確率は正・誤の二つに1つです。私たちは実験動物(モルモット)でなく利益を享受すべき人なのです。多佳子はその事を分っている。それをこのに感じた私。

この句は誰に宛てたものだろうか?そりゃあ!私に決まってますけど、あなたがご自分に宛てた句だとお取りになるのは読み手の権利です。そう読むとき「わが額」を多佳子の額と受けとめることはない。多佳子はその事を私に教えてくれる。鉄格子は他人ごとでなくて多佳子自身の額にある鉄格子のことです。多佳子がそう思ったのなら私もまた己の鉄格子と受けとめる。

ま、多佳子の弟子志願者は誰でもそう捉えるでしょうね。師匠が実践している哲学を弟子たる私もまた実践できる嬉しさ・幸せ。これこそ弟子冥利に尽きると‥‥是は私の信仰であれば、だれに同意を求めるものでもありません。私自身の鉄格子を抜出なければの想いです。一応は杉田久女を対告衆に見立てたと読めるが、肝心の多佳子自身へ向けて呼びかけた句にもなっている。

女性の愛(かな)しさまでが私の中に引きだされるのは、鬼子母神が世界中の全ての子供の命と己が子の命の重さを比べて悟った仏説の影響かもしれない。子供をもつ親は余所の子の命・価値も思いやれるものだし・配慮できる機会を得たと捉えるのも間違いでないと思います。拝

 

 

 

乳母車夏の

 

乳母車夏の怒涛によこむきに 橋本多佳子


橋本多佳子を知ることが出来たのは「近代俳人」に載った上野さち子氏の短い記事のお陰。そのときの何気なしに読んだ短い文章までは憶えていないが、その文がなければ私が多佳子に惹かれることは無かっただろうし、以来13年ほどの時が経って考えるに、他に代えられない貴重な時間を私に贈ってくれたのだと有難く思えてならない。

このように語ったところで私の心のなかを誰も追体験できる筈もないが、多佳子の乳母車にナニを想うかは人それぞれであれば、文を読んで共感するとか同情するとか反発する、あるいは多佳子の乳母車以上に重かった記憶が呼び覚まされることになるだろう。他人は知らず、私自身の乳母車は扱(こ)けさせることなくシッカと進めなければ!

俳句とはどんな文学か?そこまで考えずに済ませてもいいが、多佳子の句は私の背中を力強く温かく押してくれる追い風の役目を務めてくれている。即ち文学であるが、それ以上に私には哲学であり宗教でもある。私の前をいく多佳子は荒れ野の草を踏み分け進む先覚者で、横向きに倒れてしまう弱者であり、だから多佳子は真実・偉大なんだ。

の宗教は(私の場合は)そういうモノになる。この文を考えていて新カテゴリーの方向まで見えた気がする。有難いことです。

 

狐啼く夜

 

母と子のトランプ狐啼く夜なり 橋本多佳子

 

みんなもご存知でしょう? 参加者全員でカードを分け合って、そのなかにババ(=ジョーカー)が入ってるの。ババはペアを組めないから場に晒(さら)すことが出来ず、それなら最後まで持っててドン尻になるか、あるいはババを誰かに持ってかせるか、だよね。

この句、母子3人でゲームしたのだろうな。だれもが「ババなんか持ってないよー」って顏するのだけどババを引いてもらったほうは思わずニンマリしてしまう。トランプ遊びはいっぱいあるけど、ババ抜きがイチバン興奮した(私の経験では⋯ですけれど)。

勝負となると母も子も遠慮なしだよ。何がナンでも上手に騙(だま)して勝たなきゃなるまい!3人とも狐になってしまってキャンキャン吠えたり悲鳴をあげたり笑ったりの騙しっこ。賑やかに騒いだ想い出は私にもあって、それで人生に飽きがこないのかも。

多佳子は忙しい日々のなかから時間をつくって娘たちに楽しい時間を贈ったのでしょうね。この句も破調になってる。お上品に楽しむのでなく、騙しもアリだから楽しいよね。5・7・5に囚われてると「トランプ狐って何のこと?」ってなってしまう。

 

 

母と子のトランプ狐啼く夜なり

最終更新:  hasimototakako2 2008年12月14日(日)

 

インターネットで見つけた句、於多福姉はもう最高に好きです。

この夜は、親子水入らずでトランプを楽しまれたのでしょうね。

ポーカー?七ならべ?やっぱり「ババ抜き」が面白いですよね!!

こわいよぉ、こわいよぉ、きゃっ!出たぁ~、わいわい騒ぐの。

母親と楽しく遊んだ想い出は誰にとっても絶対忘れられません。

思いっきり遊んだ母親の笑い声は今でも懐かしく甦りますもの。

橋本多佳子様のやさしい心が溢れ出ているのが見えるようです。

 

 

雪の日の浴

(当面は大好きな俳句に寄せる私の想いを載せてまいります)
 
 
雪の日の浴身一指一趾愛し 橋本多佳子
 
雪の日の浴に、穢されてならない身と心と雪とが一つに重なった気がいたします。一指一趾・・・身体もですが、手足の指や踝(くるぶし)の隅々まで丁寧に浄め、同時に一指一趾に愛している二人のお嬢さまの健やかな成長と無事安寧を願う熱い強いお気持ちが感じられてならない。もしか、遺言のような想いも籠っているのかも…。
 
俳句としては破調という見方もあろうかと思いますが、私は派手な明るさでなくて一幅の墨絵・詩に接している気持ちになります。いろいろな読み方も楽しくて好いのでしょうけれど。
 
(初めに)
この句の一連は初め、ライブドアwiki に載せておいたモノですが、ライブドアの社内事情でseesaa様へ移されたモノです。幸いにして下記・引用のように、seesaawikiで大事に扱っていただいていて、お陰でこうして活用できており、感謝もうします。
 
   雪の日の浴身一指一趾愛し 橋本多佳子  
hasimototakako5 2008年12月14日(日)

(読みかた: ゆきのひのよく/みいっしいっしあいし)

この句は多佳子様が詠まれた遺句二つの一つです。
この句について、私の感じたそのままを述べます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
雪が天から降ってくる…僅かの穢れもない純白・純粋な雪。
幼い頃、人は雪とひとつの心になって無心に戯れたものね。
貴女は降る雪に飛びかかっては、無邪気に走り回ったかも。
雪は貴女を少しも恐れることなく、纏いつき・包みこんだ。
雪は貴女を少しも分けへだてせず、やさしく接してくれた。
雪は貴女の指に停まって、それからゆっくり解けたのだわ。
貴女の裸の趾に停まって、キュッキュッと啼いて解けたわ。

降る雪に、貴女の幼い日の佳い想い出が解け出してきたの?
湯浴みしていた貴女の心に愉しかった想い出が蘇えったの?
愛され愛した、可愛がられ可愛がった、慕われ慕った記憶。
気の毒に思ったり、いとしく感じたり、憐れんでもみたり。
しみじみ心惹かれて、互いを慈しみ合い、仲よく過ごした。
それに、大切な方との二人だけの思い出も大事な記憶よね。
貴女の身体・貴女の手足の指の一つひとつが記憶している。

次から次と走馬灯の絵のように浮かんでくる素敵な想い出。
振り返るに、貴女の生はいろんな愛で埋め尽くされてきた。
みんなに愛されたのは貴女が素敵な心で生きたからだけど…
誰も貴女の心を見えないし、じっさい・誰にも判らなかった。
貴女の想いを世界に届けてくれたのは愛すべき身・指・趾ね!

(通解)
雪の降る日のお風呂で多くの懐かしい想い出が次々と蘇える。
身も指も趾も、素敵な日々をありがとう。心から愛しているよ。


【愛し】を「いとし」「かなし」と読む人がほとんどですが、私は「あいし」と読む。

多佳子氏の想いを酌めば「いとし」「かなし」「うるわし」「いつくし」の読みも分る。

私は、多佳子氏がご自分の永遠の行動を誓った句と理解し「あいし」とした。

即ち、
【愛し】(あいし)愛する人の行動には「いとし」「かなし」「うるわし」「いつくし」の想いが含まれるのです。

(記.2008年8月19日)
{~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~}

(補足)
【愛し】の読み方について、誤解のないように付け加えます。

あなたが多佳子氏を写生なさるお気持でこの句をお読みになるのでしたら、
「いとし」「かなし」あるいは、「うるわし」「いつくし」の読みで好いと思います。
現に多佳子氏の師匠の山口誓子氏は「いとし」と読んでいます。
同じ理由で「かなし」も好いと思うし、「うるわし」「いつくし」も好いと思う。
山口誓子氏は弟子・多佳子氏を心底から「愛おしく」思ったのでしょう。
いっぽう、私が「あいし」と読んだのは、多佳子氏の「直弟子志願者」としてです。

【即ち】
雪の日に湯浴みしている多佳子様
彼女は希望を以って明日に向きあって生きている。
時に、感傷に浸ることはあっても、現実の行動は積極的です。
身体の隅々までていねいに洗い清めます。
手の指を一本一本ていねいに磨きあげます。
趾(足指・くるぶし)も一つ一つ磨きあげます。
佳子様は御自分の身体を一生懸命に「愛し」てあげたのです。
どこに出しても恥ずかしくないようにピカピカになるまで愛したのです。
「愛」は、積極的な「愛」の行動が伴わなければ意味がありません。
佳子様は「愛」の実践者だった。
観念の愛でなく、人や自然や真実を「愛して」生きた一生でした。